御祭神
『日本書紀』景行天皇40年7月16日条
によると
日本武尊の東征にあたって
その従者として
吉備武彦と大伴武日連
が付けられたという
由緒
遥か昔
御祭神がこの地に参られ
人々に害をなす大蛇を
払い平定しました
その由緒によりこの地が
“蛇原”
と呼ばれるようになり
現在の
“部原”
となったと言われております
御祭神に感謝し
ご功績を讃え
祠を建てました
その祠は
お参りすると怪我や病気治る
“霊場(れいじょう)”
として噂が広がり
近隣はもとより遠方からも
多くの方がお参りに来ていたそうです
時は流れ
今から1200年以上前の
延暦元年(782年)に
その祠のある場所に
社殿が建てられたのが
瀧口神社の始まりで
あると言われております
勝浦と瀧口神社
この近隣の7つの村の
総鎮守であり
古くは里見氏の祈願所として
佐馬守より刀を賜り
また江戸時代の植村土佐守以降、
勝浦藩城主より年に2度
正月と例祭の日に
供進(きょうしん)がありました
供進の際は
7つの村から名主さんも
裃(かみしも)を着て
かばん持ちを従えて
その列に参列されていたそうで
その時の様子は
それはたいそう荘厳であったと
文献に載っております
また、瀧口の大神様のご活躍を
謡われた琵琶曲があったり
市内には瀧口の大神様の
ご功績によりついた地名が
各所にあるなど
歴史のある神社です
御神徳
瀧口神社は古くから
「神威赫杓―シンイカクシャク―」
と表記され
大神様のお力が
赤々と燃えるように光り輝いている
と言われてきました
大神様の
様々な功績により
現在伝わるご利益・ご神徳も
多岐にわたります
海の神様としての信仰
海上安全・大漁満足
武家の神様としての信仰
武運長久・必勝祈願
霊場としての信仰
病気平癒・開運招福
火伏せの神様としての信仰
火難除け
境内社
浅間神社 木花之佐久夜毘売命
木花之佐久夜毘売命は
天孫瓊々杵尊の皇后
ご懐妊の際
火の中で御出産され
無事3人の皇子を生まれたという
故事にちなみ
家庭円満・安産・子安の守護神
としての信仰があります
六十六度登山をされた碑があり
地元の方の信仰が
篤い神社です
月夜見神社(縁結び神社) 月夜見命
月夜見命は穀物の起源として語られ
海の潮の満ち引き滄海原(アヲウナハラ)
の潮の八百重(シホノヤオヘ)を
支配している神です
神名の「月を読む」とは
「暦を読む」の意として
農耕や漁業の神様として
信仰があります
この地域ではいつの時代からか
縁結びの神様としての
信仰も厚く
地元の人からは
「縁結び神社」との愛称で
呼ばれています
八坂神社 須佐之男命
海原を統治する神
神名の「スサ」は
「荒れすさぶ」の意として
嵐の神
暴風雨の神とされ
荒神という性格から
災難や病難の除去の信仰や
水難除去や海難除去の神様として
信仰があります
同じ勝浦市内にある
新館区に鎮座する八坂神社の本宮
海幸八幡神社(カイコウ様) 誉田別命
八幡神は清和源氏
桓武平氏を始めとする
多くの武家に広く
信仰され
武家の守護神
として有名であるが
八幡は多くの大漁旗が立てられた様を
表す説もあり
もとは宗像氏ら海人集団の
祭る神でした
海幸八幡神社は
地元では
「カイコウ様」
の呼び名で親しまれ
大漁満足や
海上安全の神様として
信仰があります
同じ勝浦市内にある
沢倉区に鎮座する八幡神社の本宮
瀧口神社と豊浜海岸
遥か昔
砂浜は広く
もっと沖の方まで続いており
この土地は瀧口明神様の
ご領地だったと
言われております
そのため明治15年(1882年)に
解禁されるまで
明神根と呼ばれ
瀧口神社の眼前の海は
禁漁区でした
また、陸と海の中とに
明神台
と言われる地形があり
「海の明神台」
と呼ばれる海中に
地盤沈下した台状の地域が
サーフィンができる
力強い波を起こしております
そんなご縁がありますので
釣りやサーフィンで
部原海岸に訪れる方に
瀧口神社を身近に
感じていただければと
思っております
すべての部原海岸に
訪れる方が
安全に楽しんでいただきますよう
大神様のご加護を
心より
ご祈念申し上げます